昨日からグリーンラボはスノーボードの
展示会とやらで横浜に出かけました。
この催しのためのWEBで
一郎も二郎もコラムを連載したというので、
ちょっと読んだら、びっくり!
わかっていたつもりでしたが、
ここまでのびのびやっていたのかと…
***
『通学路と"滑る事"と"遊び心"』
小学校の時から学校に歩いて通った。
道のりは、往復10キロ。
といっても帰りは、おばあちゃん家まであるけばよかったから、6キロの道のりだ。
毎朝、トイレ掃除をしてから学校に行くという家庭の方針で、
今考えてみると意外と厳しく育てられたのかもしれない。
朝ご飯も自分で準備してというスタイルで、朝起こしてもらう事はなく、
それも自分の責任だった。
寝坊して遅刻して、泣きながら5キロの道のりを走った事もあったし、
友達の車に乗せてもらっていく事もよくあった。
子供の頃から、ヒッチハイクという手段を自然に覚えていた。
おかげで、子供の頃から生きていく為に必要な事を身につけられた。感謝。
冬は、良かった。
"滑って"行く事ができたからだ。
学校に行く手段がさらに増えて、自由に簡単に長い距離を移動できる。
僕のうちから菅平の小中学校に行くには、
山があるので道路を行くと5キロになってしまうが、
山を越えて行くと3キロくらいだろうか。
滑って降りる分の距離は"楽しみ"だった。
凍った道路や凍った川のコンクリートの管の中を長靴で滑ったり、
プラスチックのミニスキーを履いて道路の脇を滑り、
スキーを担いで歩いて登って滑り降りたり、
リフトに乗って山を越えて学校まで滑り降りた。
僕はそれを、"山越え(やまごえ)"と呼んでいた。
菅平の小中学生は、菅平のリフト券を好意で皆に支給されていたので、
自由に山を移動できた。
多分、一年生の頃だったけど、
学校の帰りに山を越えて滑るための道具が無かったので、僕なりに頭を使った。
思いついたのは、ピカピカのランドセル。
丁度いい事に肩ひもに足を通し、そこを掴むとそれは立派なソリになった。
ピカピカのランドセルは、固い菅平の雪の上で安定した滑りを見せた。
今でも、とても楽しかった感覚を覚えている。
でも、滑り降りるとランドセルの中は雪まみれになり、中の物は濡れているし、
ランドセルは、一年生の時からすっかり使い古されたように薄くつぶれてしまった。
とりあえず、やってみてから気がつくタイプなのだろう。
学校帰りもアルペンスキー部だった僕は、
毎日山頂にカバンを置き、練習が終わると自宅の方に滑って降りた。
少し歩けば家までもリフトとスキーを使って帰れた。
学期ごとの終業式のなると、荷物を持ち帰らなくてはいけなかったので、
両手に紙袋やメロディオン、カバンのサイドにはリコーダーや何かをぶら下げて、
カバーとバックの間にも荷物を挟み込み、
出来るだけ滑るのに邪魔にならないようにコンパクトに、
でも満載でリフトに乗って山を越えた。
僕らにとっては日常だったけど、
スキーにきているお客さんにしてみるとなかなか不思議な光景だったと思う。
スキーが好きだった事もあるが通学の手段として、"滑る事"が早かったし、楽しかった。
だからいろんな意味で僕にとって効率が良かった。
子供なりに"楽"をしたかったのだ。
こんな子供時代を過ごした結果が、今にあるような気がする。
こうなったのは必然。
うーん、しょうがない、、、。
おかげで、今のスノーボードにも生きている?かもしれない。
効率よく目的地まで近いライン取りを考えたり、トラバースラインを考えたり、
直滑降で助走をつけたり、リフトを使って山を移動したり。
多分"滑る事"が暮らしの中に身近だったのは事実だ。
雪山暮らしのなかで、滑るという行為は、効率的であり暮らしに密着している。
でも、日常にはない、どこか非現実的で不思議な感覚を感じさせてくれる。
それは、きっと冬にしか降らず、春になると解けてしまう旬のモノである
儚い"雪"の性質のせいだろう。
うーん、そう考えてみると、
生きるための仕事の中から"遊び"が生まれるのだから、
遊びも仕事も同じルーツなのだろう。
仕事は遊びであり、遊びは仕事である。
という事は、遊びも仕事も同じくらい大切で必要な事なのかもしれません。
少なくとも世の中をサバイブし生きて行くために、
せめて、"遊び心"だけは忘れずに生きたいものです。
まあ、スノーボード(ヨコノリ)をしていれば、
そんな事はまったく忘れる心配はなさそうですが、、、。
冬はみんなで雪遊びしましょ!!!